学校教育の浸透が人間から考えることを奪っているのじゃないかなぁ
ものをしっかりと理解するには一問一答を行い、自分の中で学んだことが消化されているかどうかを確認したほうがいい
と語るブログ(?)を見つけた。
それに対して、私は思う。
私たちは物心がついたときにはすでに、学校教育によってものの学び方を「躾けられた」親やメディアの人びとによって、ある理解の形式の元に、それに基づいて教えを受ける。
このときに問題なのは、その教えられたものの正しさや何かではなくて、そのように理解するという形式を説明されることもなく、それの正当を問うこともなく、それを摂取させられているということだ。
学校に入学すると、その学的理解の形式はさらに強化される。
つまり、本当に教えているものは、説明している当のものではなく、それをそのように理解するのだという形式自体であり、そのように間接的に自明性を装ってそれを伝達されるので、それに対して我々の大半は抵抗することができない。
例えば、三角で囲むことが理解だと教えられると
左の図のように三角の変形や重複や他バージョンは行使できても
右の図のような異形は理解やその発展として受け入れられないものとされる。
しかし本当に何かを成すときには、この異形の方こそが扉を開くためのものとして現れるのである。
一問一答をしてその形式の元に理解を深めたと思い込んでしまうと、その形式自体への埋没を招くと思う。
学者たちが学者たち同士で理解し合っていることによって、理解の形式は強化され、一般の人々は学的権威に圧されて学的理解を破ることの出来ない状況へと追い込まれるのだし、学者たちは当然学的理解の様式を第一義に抱えているので、その様式から脱し得ない。
脱し得てしまうと、学的成果はあげれられないのだから、学内にいることが出来ない。
何故こんなことを疑問に思い、自分の問題圏に引き寄せるかというと……
私の父親が学校というものや学歴というものをまったく疑わない人で、もっと言うとそれに囚われている人だったからだ。
父はある地方の県内の高校の偏差値をだいたい暗唱できる。
近所の人びとがどの高校を出たとか大学はどこだとか、そういうことが相手を語るうえで一番に出てくる話題となっている……。
私は悲しかった。
父が与えられたものをただそのまま鵜呑みにして、本当の疑問や全体を見ることが出来ない人間であることが悲しかった。
ある日、進路指導で父と二人学校へ行った。
私は偏差値60後半程度の学校へ行くことになった。私が行きたいのではなく、父がそのような息子が欲しかったからだろう。
そして、もっと悲しかったのは、私の前に進路指導を受けていた友達は、学校教育という基準ではかると頭が悪く偏差値のすごく低い学校の相談をしていた。そのことにその友達もその父親も羞恥を感じているようで、私たちに何とも言えない悲しい眼の光りを見せて帰っていった。
父はそのことに何か誇りを感じているようだった。
父は言った。
県内で上位2校以外は学校ではない
と
私は、父とは違う人間としてこの世に生まれてしまったと思った。
15歳のときから、私はこの社会が与えたライフストーリーに疑問を持っている。
学的理解というものもその一部だ。
それを疑い得ないという態度や、その中で殆どの思考を終えてしまうことに対する恐怖がある。
以下は、私があるブログに送ったコメント。
批判したいわけではなく、本当に不安を感じる。
突然書き込みをして失礼だったらすいません。
だらだらと長いので、読む気にならなかったらスルーしてください。
たまたまこの文章を読ませてもらって、真剣に「読もう」としている人がいることを知って嬉しかったです。
「読む」という行為を、本自体からある距離をとってしようとしていることも好感が持てました。
そして、これは批判でもなんでもないのですが、私が日々感じいている懸念についても思い当たったので書かせてください。
一問一答のようなことは私もしたことがあります。
それをして知識や理解ということは強化されていくのですが、その一方で「このように問うて何の地固めをしているのか」という疑問が湧いてくるのを感じました。
最終的には、わかるということを「学的形式」において行おうとしている自分に出会ってしまうと気づきました。100%それではないのですが、そういう形式に寄りかかって出られないでいる自分を感じました。
大学などの仕組みやその学的理解の形式が人口に膾炙しすぎていて、そのように何かを摂取することが自明になってしまっている現状があり、何かを理解しているということ以上に「何かを理解していると思わせる形式」がすでに浸透しているということと、それに対して何の疑問も持ち得なくなっているということ、という問題が表出してくるのを感じます。
何かを正確に答えられるということは、何かを正確に答えられる形式に落とし込んでいるということ、自明と言えるところまで問題を矮小化しているということ、と同時であるのではないでしょうか。
もちろん、言語化するということ自体がある範疇を言語に与え終わっているとある種の共犯的欺瞞から出発しているので自明的誤謬から逃れられないのですが……。
長くなりましたが、本などを土台や出発点にして思惟思考を発展させたり彷徨わせたり飛躍させたりすることと、理解を学的形式のもとに整列させることは全く別のことのように思えます。
そして、学的形式の整列の範疇で創造を強化していくことは子供の骨格のまま大人の恋愛をするようなもので、私はそういう研究者の集団的態度に不安を感じます。
わかるということを第一義にしているために、本質的問題をいつでも取り落としているが、本人はわかっているのでそのことに気付きえないのにもかかわらず、それがその仲間たちによって受け入れられ、それは権威をもって一般社会に放流されてしまう。
これが繰り返されていくことが不安です。
これは長門裕介さん個人に対して書いているのではないかもしれません。
たまたま書く場所がここになってしまって、私が醜態をさらしているだけですね。
でも、書かずにいられませんでした。
もし不満や怒りがあれば、ツイッターに「それは違う!」とぶつけてください。
失礼しました。